西新宿と水との関係

 さて、前回、西新宿は嘗て水のリゾートであり、明治に入りこの地に東京市淀橋浄水場が竣工したことをお話ししました。水との関係が深い土地柄ですが、ところで浄水場ができるまで江戸時代は一体どうやって人々に水を供給していたのでしょうか。

 江戸市民の飲料水は主に玉川上水、神田上水によって支えられてきました。いずれもヒトの手でつくられた水道網なのです。「水道の水で産湯を使う」とは粋な江戸っ子の大いなる自慢ですが、これは人工的な水道により飲料水を提供したことを物語っています。例えば、玉川上水は多摩川の水を遠く40キロ離れた羽村から人の手で掘削し、旧四谷大木戸から先は地中に埋設された石樋・木樋を通して江戸市内へと配水されていました。石や木の管を地中に埋め、水道管として利用したのです。当時の江戸の人口はロンドンやパリを凌ぐ100万人、世界一と言われていますが、その人口を養うに十分な水の供給システムを持っていたから驚きです。

 よく時代劇で長屋のおかみさんたちが井戸端会議をやっているシーンがありますが、江戸の地下水は塩分が多く飲料には適さなかったため、その井戸に井戸水はなかったのです。江戸市中の地下に張り巡らされた水道管により吉祥寺の井の頭(神田上水)や多摩川からの水が貯水され、その水を飲んでいたのです。

 ここ西新宿は嘗て神田上水の水不足を補う目的で玉川上水から分水された神田上水助水路が通っていた江戸水道、要の土地なのです。この水路は玉川上水が途中で別れ北上し、熊野神社付近を通って淀橋の神田上水へとつながるように、今でいう十二社通りに沿って作られた水路でした。この水路の存在により江戸水道の水の安定供給が可能となったと言われています。

 一年中常時使える水道は当時世界では江戸だけ、同時期の7つの海を支配した大英帝国の首都ロンドンでさえ水道設備はあったものの給水制限があり、1日中自由に使えなかったと言われています。

 さてここで歌川広重「名所江戸百景」の再登場です。百景の中に「水道橋駿河臺」という浮世絵があります。現在のJR水道橋駅前付近の情景で大きな鯉のぼりと遠くに木造の橋を描いた浮世絵なのですが、そこに登場する「水道」橋はその下に小さく描かれている水道用の木樋が通されていたことから名付けられたそうです。水道橋は江戸城外堀、神田川を水道管が渡っていたという文字通り「水道のため」の橋という意味なのです。

事務局長 黒川 亨