皆様がこれから仲良くしたい「渋沢栄一」さんってどんな人?

 昔、私が若いころ家族で各地を旅すると「渋沢栄一」の関係する施設が全国にあるのです。

私は、どこの生まれの人かと思っていたら、なんと私が住んでいる埼玉県の深谷市出身であることが分かりました。

 皆さんは、深谷駅をご存じでしょうか、なんと東京駅にそっくりなのです。その理由は東京駅の煉瓦は渋沢栄一が深谷市で設立した日本煉瓦製造会社で作成したものなのです。東京駅以外にも東京大学、赤坂迎賓館、日本銀行など重要な施設で使われました。

 それでは、「渋沢栄一」の人となりを簡単に・・・と言っても、すごい人生なのです。

 生まれたのは、1840年、深谷市の染料である藍玉の製造販売や養蚕などの豪農の長男として生まれ、14歳から藍葉の仕入れなどに行っていたようです。21歳で江戸に出て儒学者海保漁村の門下生となり、北辰一刀流の道場に入門、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。やがて尊王攘夷の思想に目覚め23歳で高崎城を乗っ取り武器を奪い、横浜を焼き討ちし長州と連携し幕府を倒す計画を立てる。その後、京都に上るが志士活動に行き詰まり、江戸遊学時代に交際のあった一橋慶喜に仕える。27歳の時に慶喜が将軍になりその幕臣となって、パリ万国博に出席しヨーロッパ各国を訪問し先進的な産業・軍備を視察、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受ける。その年に大政奉還が行われ、翌年に帰国、29歳で静岡で株式会社制度実践のため商法会所設立、その後、大隈重信に説得され大蔵省に入省したが、予算編成をめぐり大久保利通や大隈重信と対立し、33歳で退官。その後、第一国立銀行の頭取に就任、以後、東京海上火災、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビールなど多種多様の企業の設立に関わりその数500以上と言われている。若いころの様々な経験を活かし日本の近代化を推し進めた。

しかし、岩崎弥太郎など他の財閥創始者と異なる点は、渋沢財閥を創らなかったこと。

「私利を追わず公益を図る」との考えを貫き通した。後継者にもこれを固く戒めた。

 社会活動にも熱心で東京市養育院の初代院長も務め、現在は東京都健康長寿医療センターとなりましたが、施設の一角に「渋沢栄一」コーナーがあります。日本赤十字社、東京慈恵会など数多くの病院等の設立にも関わりました。商業教育では一橋大学や東京経済大学、女子教育の必要性から、伊藤博文や勝海舟などと女子教育奨励会を設立しました。

 実は、深谷市に渋沢栄一記念館があります。その裏には銅像があるのですが、その銅像は高さ4メートルの大きなものなのですが、少しバランスが悪いことから駅前のロータリーから外され今の座像に替えられたそうです。

 いろいろと書きましたが語りつくせないほどの功績の持ち主でありながら財閥を創らず今の日本を形づくり、知らない間に皆様もどこかで必ずお世話になっていると思います。

経営の本質は責任と見抜いていた人物であり高額紙幣の顔としての価値のある人材です。

私は新しい一万円札が発行されたらずっと懐で温めておこうと思っています。

事務局長 佐 藤 岩 雄

東京駅そっくりの深谷駅
 
「養育院 渋沢栄一記念コーナー」
現東京都健康長寿医療センター2階

 
東京都健康長寿医療センター渋沢栄一座像