第78回 2018年5月21日 「最後の言葉」

 皆様、こんにちは、半年振りにお会いできました。暑いのか寒いのか定まらない気候が続くこのごろですが健康に留意されそれぞれの職場等で頑張られていることと思います。

 さて、今日は、歴史上の偉人で色々な言葉を残した方はたくさんいますが、私の好きな一人の偉人とその言葉を紹介いたします。

 皆さんは「後藤新平と言う人をご存知でしょうか?」

 おそらく、多くの方が知らないのではないかと思います。

 昭和4年に亡くなった、医師であり官僚であり政治家です。

 官僚と言えば、いまや国の財務省、文部科学省、厚生労働省などでの不祥事が目に浮かぶかと思いますが、後藤新平は全く違います。

 彼は、今でも台湾で最も尊敬されている日本人です。岩手県に生まれた後藤新平は医者となり、ドイツ留学を経て内務省に勤務し、その手腕を買われ赴任したのが当時は風土病の宝庫と呼ばれた台湾でした。多くの困難に直面しつつも、台湾の風土病を減らし、医療制度を段階的に整えていきました。

 このとき彼が抜擢し、どんどん仕事を与えたのが一時期五千円札のモデルになった「新渡戸稲造」です。人材育成の名手であった後藤の下には、他にも多くの人材が結集し、薫陶を受けています。台湾からの帰国後、後藤を待っていたものは関東大震災でした。

 なんと、後藤は、東京市長(今の都知事)として再建を任されました。

 そこで、彼は100年先を見据え、当時の国家予算の半額を復興のために要求します。しかし、彼が要求した40億円に比べ実際の支出額は5億円でした。周りが「後藤の大風呂敷」と言っている中、安田財閥の創始者である安田善次郎が私財で寄付し、これが呼び水となり、多くの寄付が集まったそうです。

 後藤は、その予算を活かし再建案をまとめ壮大な都市計画を実行に移していきます。なんと彼は、在職中の給料は全額、国に返上し、使命感と義侠心だけで引き受けていました。

 今でも存続する隅田川に架かる橋、当時想定されていない交通量、交通手段にも対応でき、いまだに古い感じがしません。被災地の土地を寄せて、昭和通り等広い道路を確保、小学校などの耐火構造化、新橋、渋谷、丸の内、新宿、六本木、池袋・・・といった、今では全国民が知る名所は、彼が綿密な調査を重ね、地理的事情や可能性を考慮し復興させた町です。

 昭和天皇が昭和58年の記者会見で「後藤新平の都市計画が予定どおり実行されていたら東京の戦災はもっと軽かったのではないかと残念に思う」とおっしゃったそうです。

 後藤は、有能な人に個人的な援助を惜しまず、読売新聞の正力松太郎、右は北一輝、左は大杉栄など多くの人を援助し、多額の借金を残して亡くなったのだそうです。

 文字どおり、財を残さず、人を残した後藤新平の生き様です。

後藤新平の残した言葉は

  • 金を残して死ぬものは  下
  • 仕事を残して死ぬものは 中
  • 人を残して死ぬものは  上

(脳梗塞で倒れた後最後に残した言葉)

 今の日本に足りないものは、人をつくる教育と、そして後藤新平のような私欲のない大きな器を持った人物だと感じます。

事務局長 佐 藤 岩 雄

 

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大震災復興でできた鉄骨の「永代橋」
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大震災復興でできた昭和通り(片側3車線)

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